今使っているアドレスのままでEメールの送信予約ができるサイトがある。"LetterMeLater.com"という。
http://www.lettermelater.com/ ありそうでなかったサービス。ブームに乗って90年代の終わりごろにネットデビューしたが、どこを探してもこういうものはなかったと思う。ヤフーのグリーティングカードというのがあるにはあったが、ちょっと趣旨が違った。 普通のwebメールの送信画面に似ているが、送り先や表題に続いて「いつ送るか」という入力欄がある。最初は決まった書式があるのかと思っていたら、"fri 19:00(今度の金曜の午後7時)"とか"30 min(30分後)"みたいな書き方で登録できると使ってみてわかった。さすがはアバウトな毛唐向けのサービスである。 検索してみると、幾つか国内にも同様のものがあるが、添付データファイルに対応しているのはここだけのようだ。ビジネスユースに耐えうると思う。実際、社内の週報で、毎回担当者から督促を受けていたが、これを使って前もって登録するようにしてからはスッカリ優等生だ。自分の携帯に「アレを忘れていないか」とメールする、というような使い方もできる。複数のミラーサイトも含めてブログの更新予約をすることも手間要らずでできるようになる。 無料で登録できるのは月に30通まで。年間$19.95で400通登録できるようになるが、目的別にアドレスを使い分けるなど、無料で使い倒す工夫の余地がありそうに思える。 #
by junks_2
| 2012-04-05 12:31
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by junks_2
| 2011-04-06 20:24
思春期からこっち、いわゆるプロ市民的な価値観には辟易してきた。人はそれぞれ本を読んだり映画を観たりして自分なりにものを考えているものだ。だから尊重されなくてはならない。それなのに、市民運動、政治活動に積極的な人々は、普段は人権擁護や個の尊重を掲げているくせに、それらを実践する気配は微塵もみられない。大抵、他人を見下して、有象無象の啓蒙対象と捉えてやまない。
この弊害は意外と大きかったのではないだろうか。原子力発電の危険性に注目した人々の言葉はいつだって居丈高だった。政府や電力会社がいかに悪辣かを強調するあまり、実際に周囲の人々の心を動かして危険を回避することよりも、「正しい主張を展開する私達」という地位を確立することに熱心だったのではないだろうか。 最近、ネット上で原発反対派の「ホラ言ったじゃないか」顔にはウンザリだという声を見かける。対する原発容認派の無敵を誇る最終兵器は「対案出せ」砲である。「原発の危険性を幾らあげつらったところで、有効な代替案を伴わなければ意味がない。具体的な対案を出せ。話はそれからだ。」という切り返しは向かうところ敵なしだ。 私は今、原発容認派の「対案出せ」砲が無敵を誇っている、と書いた。タイトルを見て、勘のいい読者さんは気付いたかもしれないが、私はこの状況を間違っていると感じている。「対案出せ」砲を使用していいのは、 「原発の安全性は既に整っている。愚かな原発反対派が騒がなければ福島第一原発だってとっくの昔にリニューアルできていた筈なのだ。最新型の原発なら今度のようなことにはならなかった。事実、福島第二原発だって自動停止したではないか。この先端技術を全世界に輸出してこそ国威発揚となる。原発推進は必ずや震災復興の起爆剤になるに違いない。」 と言っている原発積極推進派だけだ。内容はともかく彼らの態度は一貫している。 原発容認派と原発推進派は違う。原発容認派とは原子力発電の危険性は「大人のたしなみ」として熟知していながら、有効な代替案がない以上、これまた「大人の冷静な判断」として原発を容認する立場の人々である。容認派が原発の危険性を否定できない以上、彼ら自身も安全なエネルギー政策を模索しなければいけない責任を負っているのは明白であり、原発を容認することによって反対派よりもその義務が軽減されるという理屈は成り立たない。一方、原発反対派は危険性を示すデータが正しい根拠を持つものであることを要求されこそすれ、代替案について容認派よりも重い責任を負うことには決してならない。 まとめよう。 【原発推進派】 原発の安全性を立証する責任がある。 代替エネルギーを立案する責任はない。 【原発反対派】 原発の危険性を立証する責任がある。 代替エネルギーを立案する責任もある。 【原発容認派】 原発の危険性を認める限りにおいて、 代替エネルギーを立案する責任を反対派と等しく負う。 本来、原発容認派の「対案出せ」砲が不正使用であるにもかかわらず、一定の説得力を持ちえたのは、大抵の原発反対派が「いい子ちゃんぶって感じの悪い人達」なことへの反発が蔓延していたからである。容認派がこうした感情論にフリーライドした存在である以上、「大人の冷静な態度」などとは、夢にも言うことはできない。 原発の安全性と代替エネルギーの議論には階層がある。安全性が否定されれば三派が代替エネルギーへの責任を負うことになり、立証されれば三派共に解放される。代替エネルギー論は原発の安全性に従属する議論なのだから、今は安全性に議論を集中させるべきだ。現在、ボールは推進派にあると言える。「大人の判断」云々を言うのであれば、外国製の福島第一原発が著しく老朽化していたことや、第二原発が自動停止した事実を臆することなく主張すべきだ。目下のところ、そのような内容は力ずくで抑えられてしまう傾向にある。 #
by junks_2
| 2011-04-06 14:47
「ピーマン白書」は、「3年B組金八先生」が巻き起こした学園ものブームに乗り損ねた伝説のドラマである。
特撮ファンに絶大なカルト人気を誇る岸田森の怪演も虚しく、全く数字が取れずにほんの数回の放映で番組打ち切りになってしまった。私は「帰ってきたウルトラマン」の坂田さんが出るのを楽しみにしていたが、彼が演ずるのは主人公達の仇役で、フンドシ一丁のところに頭から水をかけられてキリキリ舞いさせられたりしていて、子供心に「こんなの嫌じゃないのかな…」と心配していた。 ドラマの内容は岸田森の素っ裸以外ほとんど覚えていないが、オープニングとエンディングのテーマ曲が私は大好きだった。学校のそうじの時間に雑巾がけをしながら小さい声でよく歌っていたものだ。これと前後して甲斐バンドの「漂泊者」という曲を使った「学園危機一髪」というドラマもあった。 「テレビのヒーローがくじけちゃダメだと言ってる。でも俺はイライラしながら踊るだけ。」 という屈折した歌詞が子供には新鮮だった。特撮ファンだったので、テレビのヒーローを相対化する発想はまるでなかったのである。これはこれでとてもいい曲だが、私は甲斐よしひろの声が昔から好きではなかった。そこへいくと「ピーマン白書」の「パラダイスコネクション」と「トゥモロー」は、搾り出すようなヴォーカル自体がねじれていて、切なげで、「漂泊者」をきっかけに「○○するなよ」「○○だろ」という態度の歌詞に興味を持ち出した年頃の私にはしっくりときた。それは圧倒的な存在感だった。どんな歌手なんだろうかと思っていたが、番組は打ち切りになり、あの歌声を聞くこともなくなってしまった。 ネットが発達して「パラダイスコネクション」のドーナツ盤を手に入れることができた。なんと作詞は阿久悠だった。いろいろ情報を検索するとクレジットされているオールジャパンデビルバンドというのは、この時限りの覆面バンドということらしかった。謎は残った。 時々思い出したようにしつこく検索を続けていたら、この歌手は、かつてジャニーズ事務所に所属した豊川誕だという情報にヒットした。関係者以外にとって、これはここ1、2年の間に出てきた話であるのは間違いない。「ピーマン白書」の展開が佳境に入り、盛り上がったところで「主題歌を歌っているのはあの豊川誕だった」と発表することで、今で言うシナジー効果を狙っていたらしい。ところが、ドラマの打ち切りでこの話もフイになったということのようだ。周辺情報の方が余程ドラマチックである。豊川誕は今でも歌手活動を続けているとのことだ。一度観に行ってみよう。 ちなみに「頭がピーマン」というのは中身が空だという意味の当時の流行語である。ずうとるびの新井が主演した「ピーマン'80」という映画もあった。弟が親戚のおじさんに連れて行ってもらって喜んでいたので「俺も観たい」とせがんだが、二度も足を運ぶような映画でもなかったようだ。やんわりと拒絶されてしまった。パンフレットでは、岸田森ではなく新井康弘が素っ裸で笑っていた。 #
by junks_2
| 2011-04-05 09:08
新藤兼人の「裸の島」は好きな映画だ。これは離島に暮らす農夫一家の日々の営みを一切セリフのない実験的な作風で淡々と描かれた作品である。あんまり気に入ったので主演の殿山泰司のエッセイ集まで買ってしまったが、「裸の島」についての記述はホンの少しだけだった。
世の中が原発の事故で大騒ぎしているので、以前に新藤監督の「第五福竜丸」のDVDを買おうとして結局買わなくてそのままになっていたことを思い出した。今はネットオークションがあるので大抵の映画は思いついたらすぐに観ることができる。 「第五福竜丸」は理不尽な被曝事件を過剰な情緒を煽ることなく淡々と描いている。新藤監督はいつも淡々としている。前半で描かれる海の男達の生活に関する情報量はとても多い。遠洋漁業とは文字通り人海戦術なのだが、私もすっかりいいおじさんになってしまったというのに、この映画を観るまで、船元、漁師、船長、漁協らの関係や航海の採算管理について考えてもみたことがなかった。丁寧な日常の描写の積み重ねが、これに続く被曝という非日常性を浮き彫りにする。航海中に漁師らを和ませていたギターは、被曝露呈後の船体調査で無造作に廃棄されることになる。この非情な対比の演出はお見事と言う他ない。 この映画後半でクローズアップされる久保山さんは実在した人物である。彼が被曝事故で亡くなった時、日本人の心は一つだったのではないだろうか。当時の日本人は米軍がもっと情報を隠しているのではないか、と疑った。多数の犠牲者が出ている今般の原発事故で日本人の心は一つだろうか。平成23年の日本人は日本政府がもっと情報を隠しているのではないかと疑っている。 ちょっと思い出しただけでも放射能汚染をテーマにした映画には「ゴジラ」「渚にて」「復活の日」などがあるが、今回の「第五福竜丸」ほど汚染を身近に感じながら鑑賞したのは初めてだ。とっくの昔に精算した筈の借金が「まだ残っている」と言われたような気分になる。 打って変わって、汚染の風評被害で陸の孤島と化したいわき市に物資を届けたという江頭2500デシベル(本人曰く)のネット動画を同じ日に観た。江頭とアシスタントが延々とお喋りを続けるだけの低予算な番組だ。今後、こういうものは増えていくのだろうか。パンクロックやポップアートのアーチストらがある種の気概をもってブチ壊そうとしたものが最初から壊れているのが21世紀のネット社会なのかもしれない。映画くらいしか手段がなかった時代には必要とされた才能や努力がなくとも、「伝えたい」という気持ちさえ確固としたものなら、情報発信が誰にでもできるようになってきた。これまでより多数の発信者が、これまでより少数の受信者を対象に語りかけるネット社会。多極化が加速して「日本人の心が一つ」だなんてますますおとぎ話になっていく。 #
by junks_2
| 2011-04-04 10:43
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